「パリ・コミューン」百周年と今日の現実
――われわれはなぜに今日議会に関わるのか――

一 はじめに

 闘う労働者諸君!
 解体から解体の渦の中にたたき込まれている、その下から立ち上がりつつある労働者階級のすべての家族諸君!
 大地と労働と真実の人間的連帯を求めて、恐れを知らぬ闘う学生諸君!
 そして、保守的反動的農民から、劇的に一挙に、革命的農民に転化しつつある闘う農民諸君!
 腐り果てた今日のブルジョア社会に属しつつ属さないすべての労働市民諸君!
 パリ・コミューン烽起百周年は、三里塚新国際空港建設粉砕の、労・農・学決戦をもって、いま記念されつつあると思います。
 パリ・コミューンは、「コミューンの旗は世界共和国の旗である」と布告した。第一インターナショナルは、「コミューンは不滅の目的のために死ぬ名誉を、あらゆる外国人に許した」と全世界にわたってこのように声明した。
 パリ・コミューンは、ドイツ労働者をそのコミューンの「労働大臣」とし、英雄的なポーランド解放闘争の闘士をパリ防衛軍の最高指揮官に選んだし、すべての外国人にコミューンの戦士と代表になる資格を与え、労働者階級の闘うすべての家族、婦人、子供たちの数万人の流されていく血をもって、百年を通して呼びかけたものは、その不滅の大目的とは要するに、生産者の自由で平等な連合、ということだと思います。
 生産者の自由で平等な連合、自由な共同労働の実現、このことこそが、今日の新国際空港粉砕の労・農・学の新たな革命的連合をもって、いま答えんとしている核心的なものであると思います。

二 病める巨大都市と沈みゆく農村の分離

 新国際空港とは、いうまでもなく今日の最も文明的な世界交通の手段である。それは、大工業の要請として、全世界と全日本にわたって、病める巨大都市と、沈みゆく農村の恐るべき分離の過程を、大規模に促進せんとするものだと思います。
 今日の大工業、それは長い問、お上品に隠蔽されてきたブルジョア文明の本来の恐るべき野蛮性を、いまや露呈しつつあるものだと思います。まさに世界交通の飛躍をもって、熱病的に突撃せんとする今日の近代的大工業は、ブルジョア文明の恐るべき野蛮性の露呈として、大工業の破局そのものを突き出しつつあると思います。
 今日の大工業の破局とは何か?
 それは第一に、労働力、この人間の生ける自然力である労働力の恐るべき濫費と荒廃、それとともにしっかりとみつめなければならないのは、自然としての大地、土地、その大地・土地そのものの恐るべき濫費と荒廃、そのことをもって、まずもって突き出されていると思います。
 あの三島由紀夫のライフワークの表題は『豊饒の海』となっている。豊饒、豊かさ、それは偉大なことばだと思います。そして、だがそのことこそが、その豊饒性こそが国家的ゲバルト、公けに組織された暴力のムキ出しと、さらに右翼クーデターとを必要な手段として、大工業そのものによって人間においても、自然においても破壊されつつある当のものだと思います。
 大工業は、人間の生ける自然力である労働力を濫費し、かつその豊かさ、本来の多様性、多面性すなわち人間自身の自然力の豊饒性を破壊し荒廃せしめるだけではなく、そのこと自体が、同時に土地そのもの、大地の豊饒性、豊度の恐るべき破壊としてある。
 今日の生産組織である帝国主義的工場制度と呼ぶべき生産組織は、たとえば自動車産業では、欲求の増大とともに、それを満たすあらゆるものを手に入れようとするならば、熱狂的に自動車をつくる。そのことによって増大する欲望の対象を手に入れていく。
 農民は、大都市の産物への欲求が増大すればするほど、熱狂的に自己の労働力を駆使しつつ、大地から土壌成分を熱狂的にくみ出していかなくてはならない。そのあげくの果ては、米が倉で腐るというかたちでの、労働力と大地の濫費を露呈しなくてはならない。このことこそは、今日の大工業の破局を示す第一のものだと思います。
 第二に、労働者にとって、豊饒なる土地を失い、その土地が荒廃・衰弱するということはどういうことなのか? 労働者にとって土地とは何か? 生ける労働力の濫費は自分自身の問題であるけれども、その豊饒性の破壊による荒廃はただちに労働者の自分自身の問題であるけれども、土地は、長年にわたって土地から離れた、大地から離れた労働者にとって土地とは何か?
 土地の豊饒性、豊度の破壊と衰弱は、感傷的な自然主義者の幻想的な問題意識にあらずだ。それは何かといえば、自然から離れ、土地から離れ、大地から切り離された労働者に、次のような姿をとって現われていると思います。
 すなわち、一口にいって、都市大衆の、都市労働大衆の、肉体的健康の基礎の破壊と、農村労働大衆の精神生活の基礎の破壊として、恐るべき姿を露呈している。巨大な人口を、大工業の突撃をもって都市に集中するというそのこと自身が、人間と自然との労働による代謝、労働による自然との交換、汲み尽された土の成分の大地への還帰、そのことを恐ろしく破壊的に撹乱する。
 都市の大衆の肉体的健康の基礎とは何か?
 それは、豊饒なる自然としての大地としての大地にほかならないと思います。農村の土壌成分から汲み出されたその産物は、農産物にしろ、鉱物にしろ、都市において消費され、また生産され、空気、水、土地は、その消費と生産のもたらす、放れ流す排泄物の、単に捨て場と化している。そのことをもって、空気、水、土地という生ける根底そのものを有毒化する。不可避的にそうならざるをえない。今日、「大気汚染」「水質汚濁」は、人間が自分自身の排泄物に中毒する恐るべき姿をとっていると思います。
 そして他方、農村大衆の、精神生活の基礎とは何か?
 それは人々の交通ということだと思います。この人々の交通こそ、人間が言葉を発達させ、精神生活を豊かに発達させてゆく基礎なのだが、巨大な人口の都市への集中とまさに対立した態容である、農村における「過疎」とは何か?
 それは、人々の接触と交通の恐るべく薄れゆく分散と孤立。その最も鋭い深刻な特徴は、農村における精神病の蔓延ということとして現われていると思います。
 しかしながらそれは、同時に、自家用車、有線放送、テレビをもってあがなわれているかのようにみえる。だが、年老いた両親たちをテレビにかじりつかせていくという姿は、この交通手段としてのテレビにしがみついていくという姿はそれ自身が、今日の農村のすさまじい孤独な人々の姿を象徴していると思います。しかも、そのこと自身が、「情報」なるものを手に入れること自身が、さらに速まっていく都市への流出として、したがって、いっそう深まりゆく孤独として現象していると思います。
 このようにして、都市における大衆の肉体的健康の基礎と、農村における大衆の精神生活の基礎の破壊が、まさに労働者が賃金労働者として、機械のみならず、土地から遠く引き離されてきた長い歴史の過程を通して、今日に突き出されているものだと思います。
 大工業の今日の破局の第三のものは、そして最も鋭いものは、すさまじい家族の解体ということだ。
 家族! 今日の三里塚の農民が、農民的家族の強烈なきずなを突き出している姿は、都市労働者が長年にわたって忘れてきた、今日では、もはや同じものとしては決して彼らに帰ってこない、家族なるものの姿を思い起こさせていると思います。
 農民的家族とは何か?
 それは、家族労働の経済的基礎をもち、土地所有者としての親父の父権、親権の下にその命令の下にではあるけれども、家族が同時に生産の一単位となっており、この家族という限界の内部で生産、生活が共同的であり、そういうものとして、家族相互の自然な理解が基礎をもっていたと思います。労働は、その限りにおいて、同時に喜びであるという姿をもっていると思います。
 しかしながら大工業がそれに破壊的に作用していく。この家族の解体、不断に労働者として再生産され、すさまじい姿をもっている今日の労働者家族のあらゆるきずなの裂断されてゆく状態、それは端的にいって、家族の各人が、他人に使われる労働に出てゆくということに帰着する。これは発展の基礎であっても、同時にすさまじい禍いの源泉である。 親父は出かせぎか、いずれにしても他人に雇われて働く、女房はパートとしてますます拡大していく夜間労働をもいとわなくせしめられる、子供は早くから働きに出る、その親父、女房、子供たちの労働は、自分たちの共同の目的の下で、自分たちの労働を調整し、そしてそれを享受せんとするものとはまったく異なる、まったく無意味の、人に使われている労働として、不断に家族の相互理解の基礎が破壊され、夫婦、親子相互の不断の無関心と無理解。
 土地を失うとともに、農民的家族の父権、親父の権力の下への隠然たる従属からは切り離され「自由」にはなったが、同時に底知れぬ孤独。夫婦相互の不断の無関心と無理解は、くりかえされていく家内衝突として現われる。
 子供にとって両親自身が悪しき環境となる。さらに子供の世話をする時間にもことかく親は子供に無関心になり、また自分の「自由」の足かせとして子供をにらみすえ、親子は愛情を注ぐことも受けることも忘れ果てんとする。幼少のころから孤独に慣れて成長する子供は、やがて成長して、自分の家族をもつに至っても、その家族において安んじることはできない。近代的大工業の破局は、いまやこのすさまじい問題の解決を今日の課題とせよと迫っている。

三 生産者のあらたな革命的な連合の台頭

 そのような状況を不断に再生産するという中から、今日の労働者階級の老、若、男、女の新しい連帯への闘いは、一つ一つの闘争に問いかけるように突き出されてきていると思います。
 今日の帝国主義的工場制度は、男女、種々の年齢の人たち、さらに朝鮮人等々の、また部落民等々の、歴史的伝統ないし社会的習慣の差異にまでなっている種々の差異、そういう自然的にまたは歴史的に異った人たちの一つの驚くべき巨大な結合労働体だ。だが、重大なことは、同時にそれが生産手段の所有者でかつ労働しない資本家の権力によって、勝手に配列されていく結合労働体として、そういうものとして、人間の自然的差異、および歴史的差異を極度にかつ醜悪に利用しつくして、人間の自然的豊饒性そのもの、本源的多様性そのもの、生まれながらにもっている豊かに多面的に発達する能力を抑圧し破壊して、恐るべくかつ醜悪な差別として固定するという、形態をとっていることだと思います。
 そのような野蛮な、資本制的形態をとっている結合労働体は、しかし、労働者の家族のあらゆる労働可能な人たちを現実の労働に不断にたたきこみ、また不断に労働から追い散らすということを禍いの源としている事態は、そのもたらす恐るべき荒廃と奴隷状態は、労働者が再び機械、工場、さらに土地をその手ににぎり、また農民が、土地とともに、自らを撲滅していく工場、機械、交通手段をその連合した手ににぎるということ、そのことなしには、すなわち、生産する大衆、労働者と農民が工場と、工場のみならず土地を、その手に共有するという、その生産者たちの連合した手ににぎるというそのことなしには、今日の大工業の破壊の歴史的突破はないということを、不断に今日の闘いに、単に将来の問題ではなく、まさに現在の問題だぞと、問いかけ突きつけているものだと思います。
 旧い労農同盟は、“労働者には工場を! 農民には土地を!”というスローガンの道に固定化されてきたと思います。労働者は単に工場だけでは足らない。大地をその手ににぎりしめなくてはならない。農民は土地のみならず工場を、労働者としてともにその手ににぎらなくてはならない。そういうものとして、今日の労農学の新たな革命的連合が育ちつつあると思います。
 三里塚農民の闘いは、「土地を武器にして権力と闘う」ということを自分のことばでいい始めている。
 それは何か?
 土地、土地に拝跪し、土地を主人公としてうちたて、その下に隷属している姿がまさに農民の農民的土地所有である。土地を主人公にし自分をその手段にしていくその姿が、土地を武器として手段にし、自分はその主人公として立とうとするその闘いの衝動を表現していると思います。
 農民が革命的になるということは、確かに農民の農民的立場を捨てて、労働者階級の立場にたつということ、現在の立場を捨てて、将来の立場にたつということである。しかしそれは、農民がさっさと流浪の民になって彷徨するということを意味しない。また農民が頭の中で『資本論』を読んで、まず頭から革命的になるということを意味しない。
 不断の、今日の、今日の文明と社会と国家が不断に彼らを滅ぼさんという過程を通じて、その闘いを通じて、不断の連合を通じて、はじめて、闘いにおいて築かれつつある連合を基礎にしてはじめて、理解しつかみとっていくものである。そうして、この新国際空港、それはすなわち世界交通の飛躍的手段として、単に日本列島全土のみならず、全世界にわたって破局的な大工業の破壊作用を及ぼし、その害毒をばらまこうとするものである。

四 対外的には「国民」として対内的には「国家」として

 それは、はっきりとした国際的性格を強烈に突き出している。そこで今日、戦後の日本のブルジョア社会は、新たに対外的には国民として、対内的には国家として、新たな政治的桎梏としてまとめ上げられようとしていると思います。
 かつて、イギリスのインド支配の将来の結果について、若きマルクスはこのことを、こういうこととしてつかみとったと思います。すなわち、「深い偽善とブルジョア文明の本来の野蛮性とは、お上品な形をよそおっている本国から、それが赤裸々な姿であらわれる植民地に行くときに、あからさまにわれわれの眼前に、さらけだされるのである」と。そうして、インドは最も厳密な意味において、イギリスに侵略された。侵略、それは厳密な意味で征服を意味しますが、イギリスはインドを征服した。
 征服とは何か?
 インドの領土、その領土を国家的ゲバルトをもって併合するということ、この大地を領土的に併合するということをもってその上に生きるすべての人民を隷属せしめるという、このことを意味する。
 単に「軍事的侵略、政治的規制、経済的進出の区別」等々の単なる形態の区別だてによっては「侵略」の本性は何ら明らかにならないばかりか、「アジア再侵略」論に勝手に危機感をあおるものといって、自分自身の根本的な危機感の欠如を暴露しているだけで、その批判にならない。
 征服したイングランドは、国家的ゲバルトをもって土地から農民を引き離さなくてはならない。そして、この歴史的分離過程の飛躍のテコとして推進されたものこそが、まさに交通手段、鉄道の敷設ということであった。鉄道の敷設をもって農業と工業の分離の促進、不断の交換の圧力をもってする農民の分解、それとともにあらゆる現代的苦難がインドにおいて生産され再生産され始めていくこととなった。
 そして、やがて一世紀以上の歴史を通して、しだいにインド・ブルジョアが育つ。その下で呻吟していくインド・プロレタリアが育つ。彼らはイギリスに対して長年にわたる独立運動をおこなう。ついに第一次世界大戦と第二次世界大戦の激動を通して、政治的、形式的に独立するにいたる。
 それとともに、イギリス帝国主義は一ミリでも帝国主義ではなくなったか?
 とんでもない! 今日かの「アジア再侵略」論の秘密は、植民地のない帝国主義など理解できない、というものだ。もしそうであるならば、まさに論理的に不可避に、植民地の独立とともにそれだけ帝国主義は帝国主義でなくなることになる。それとともにこの論理は現実をありのままにとらえることを止めなければならなくなる。今日の深いブルジョア的偽善性とブルジョア文明の野蛮性はつかまれずに帝国主義の「近代化」にだまされるか、「独立」などウソだというかしかなくなってしまう。
 ところが、独立して自分のインド政府をもったインド・ブルジョアジーは、イングランドの支配階級と手をにぎり、革命的農民、インドの革命的労働者に対して対抗するようになる。むき出しの征服からその国の支配階級と反革命的に連合するという、革命的階級に対抗しての政府と政府の連合という、そういう姿をとる。世界交通は、征服とともに交換であるということを忘れてはならない。この植民地支配体制の崩壊のなかからの国際的な反革命階級同盟の形成をもって、その文字通りの弾丸とともに資本と貨幣の恐るべき弾丸が打ちこまれていく。そういうものとして、インド農民を深いところで解体し、破壊し、荒廃と奴隷状態にたたき込んでいく。
 このことは同様に今日の世界史的闘争を成すベトナム人民についてもみることができると思います。
 フランスは文字通りベトナムを征服した。ベトナムのアジア的村落共同体は、それ自身が共和国のように立ち上り、何十年にもわたって、土地、なかんずく村落の共同的に占有するか所有する共有地をめぐって抵抗した。その抵抗のなかでフランスは、国家的ゲバルトをもって広大な未開墾地の国有化を宣言するとともに、運河を切り開き、鉄道を敷設し、はじめ主として憲兵をもって農民をゴム園に引きずり出し、工場に引きずり出し、やがて運河と鉄道網の破壊力そのものが大きな力を作用してしだいに、ベトナムにおける都市と農村、工業と農業の分離の荒れ狂う過程が突進する。
 フランスの支配の下で、世界市場をめざしての米の輸出、それは、この過程を現実に国際的関連のもとにおいて大きく飛躍させる。フランスの支配の下ではじめて進行したのだ。フランスによって国有化された広大な開墾地をフランス人植民者とベトナム人の有力層、富裕者にタダ同然で払い下げ、ベトナム大衆を開墾者にし、かつそのまま小作人の大群とした。
 アメリカはどうか?
 フランスのあとを引きついだアメリカは、革命的農民と革命的労働者に対抗して軍隊を送りつつ、しかしそれはその国の抑圧し搾取する階級と醜悪な連帯をした。古い植民地支配体制の崩壊の中から、しかし不断に革命的人民を、国際的に抑圧するという、すなわちその国の支配階級と連帯して各国政府の連合をもって抑圧するという、国際的な反革命階級同盟の形成・再編の過程を、いまや幾千万大衆の眼前にさらけ出し突き出しつつあると思います。
 征服を前景から後景に移しながら、しかし革命的階級に対抗してこそ各国政府の赤裸々な反革命的な国際的な連合をもってしなければならぬというところに、ブルジョア文明の本来の、すなわち本源的な野蛮性は、いまや一般的に露呈しているのだということが集中して示されていると思います。
 各国の人民がその支配階級によって、国家のもとに、国民としてまとめあげられ、対外行動にかきたてられてゆくということが、征服と被征服の対抗にすぎないのならば、ブルジョア文明の野蛮性と近代的大工業の破局そのものは、その階級対立は少なくともその本国においてはまだ隠蔽されることもできた。だが、人民を国民として国家のもとに統合するその各国支配階級の諸政府が、まさにその革命的人民に対抗して、すなわち革命的階級に対抗して、各国政府が反革命的に連合する姿をムキ出しにさらけ出さなければならなくなった時、それは支配階級による国民的統合のまさに破綻が暴露されているのであり、そこで階級支配はありとあらゆる偽善と欺瞞をもって、その対外的な国民という姿をとりつくろっての新たな国民統合による隠蔽策を追求し、またその秘密が露呈するという、大規模な、安んじることを止めた、緊張の渦中にたたき込まれる。いまやそのような事態になっているのだと思います。
 まさに、他国民を抑圧する国民は自分自身の鉄鎖をつくるのである。しかしそれは、「他国民の圧迫に必要とされる権力は結局つねに自分自身にむけられる」からこそである。すなわち、これは国際的な闘争を征服すなわち侵略の一色で描きあげ、せいぜいその変容の形態について緻密化することしか知らぬものの理解を越えているもの、すなわち政府権力の国際的な階級的抑圧の性格からくることを端的に明らかにしているのだ。だからこそ、「結局」のところ、公然たる諸政府の連合をもってする国際的な反革命階級同盟こそは、このテーゼに真実の光をあてるものである。

五 コミューンのための闘争と転落の迫る議会の革命的利用

 そこで、そういう歴史的な国民的展開の過程を通して、今日の日本のブルジョア社会はいま「沖縄返還」と領土問題を一大政治的手段として交通手段の飛躍とともに、だれの目にもおおいがたい大工業の破局的な破壊作用のなかから、国家権力のもとへの国民的統合の新たな編成を為しとげようとしていると思います。
 それをいかにして為そうとしているのか?
 大工業の破局の露呈とともに、しだいに日本の資本家階級のみならず、小ブルジョアたちは、いまやその政治運動を政権獲得の運動へと高めつつあると思います。今日の社会の不安の中から、これらの階層は彼らなりに、しだいに「政権」なるものを手に入れたいという衝動を強め、それをいまやあからさまに示しつつあると思います。それはいうまでもなく一つには「野党再編成」なるものとして、社会、民社、公明の大きな野党新党をもって自民党にとって代りたいとし、あるいは他の一つは、「社・共共闘」なるものとして自民党政府に代る政府をもってしたいとし、そういうものとして自民党の議会制独裁にとって代って何とか議会を通じて政権を手に入れたいという姿を示していると思います。
 そして、この議会の外には、「文武両道」をかかげる自衛隊クーデターの呼びかけが本格的に始まっており、国際情勢とりわけ朝鮮半島の情勢いかんでは、一挙的にクーデターによる政権掌握、そのもとでの海外派兵と憲法改悪がいまや現実の危機として突きつけられている。
 しかし、忘れてはならないのは、この小ブルジョア的な政権獲得の道は、次の本質的な特徴をもっているということだと思います。
 長年にわたって、数千年の階級対立を通して鍛え上げられてきた一つの寄生体、社会の上にそびえたって、社会に対して統治してきた一つの寄生体、ある階級から他の階級にただ受けつがれて、決して破壊されずに発達してきた寄生体、すなわち官僚・警察・軍隊の極めて厳格な系統図をもった官僚的軍事的統治機構、この国の執行権力、これを決して破壊するのではなくて、手に入れたいとするものである。民主主義的小ブルジョアは、できるだけ有利に議会を通じ自分たちに、すなわち今日の小ブルジョア的諸階層に、これを掣肘しつつあわよくば手に入れたい、これこそがあらゆる種類の議会主義の本性であると思います。議会主義とは官僚・警察・軍隊の寄生的統治機構を破壊するのではなくてまさに手に入れたいという、議会をもってこの寄生体を自分に有利に掣肘しさらに手に入れたいという、そのことをこそ本質的な特徴としているものだと思います。
 しかし今日の新たな闘いは、一歩一歩、かならずしもそうとは意識せずに、議会による国の執行権力の掣肘にかわって、まさに大衆の実力をもってするこの執行権力の掣肘へ、さらにこの大衆の現実の闘い自身をもってのそのきっぱりした破壊へそして、まさにコミューンという働く階級の政府の樹立へ、そういう過程を一歩一歩たどらんとしていると思います。このことこそが議会主義をこえていく基本的なものだと思います。
 今日の闘いにとって議会へのかかわりとは何か?
 いまや、あれこれのブルジョア分派の支配ではなく、全ブルジョアジーの支配としては唯一可能な形態であるブルジョア議会制は、その議会は、大工業の破壊の下で民主的小ブルジョアによる政権獲得への熱狂的な衝動を集中する、すさまじい政権獲得欲の渦になりつつある。
 その向うには、ブルジョア議会そのものの劇的、一挙的な転落と、公然たるファシズムの成立が、いまや現実的な迫りくる危機として、ひかえている。そういう状況の下において今日、革命的プロレタりアートの議会へのかかわりとは何か? それは、まさに、官僚的軍事的統治機構という寄生体のきっぱりとした破壊とコミューンの樹立のための闘争を、いまこそ、あらゆる手段を駆使し、あらゆる力を解き放って大規模にかつ急速に促進するという、ただそのためにこその関わりでなければならない。
 ソ連軍が、ソ連を先頭とする東欧五ヶ国軍がチェコに侵入していく中で、チェコの中から現われでんとして消えていった呼びかけの中に「ありのままの自分を知るということは智恵の第一条件である」というマルクスの言葉があったと思います。今日の闘いほど、この言葉の真実の革命的意義を推し進めなければならぬときはないと思います。自分を知ることによって急速な成長をとげていかなくてはならない。ありのままの自分を知るためには鏡を必要とする。それを知る鏡とは何か? まず、闘い自身が、そのまま鏡である。闘い自身の破壊力、変革力、人々の長い伝習的となっている観念を突破しつくり変えていくものだと思います。そして同時に、諸機関紙によるその闘いの呼びかけ、その見解と意図の表明、そのことも同じに一つの鏡であると思います。
 しかし議会とはそれとはことなった鏡である。議会は、階級闘争自身が生み出しそれを映し出す鏡である。すなわち議会という国の決定機関をもって、行政権力という国の本来の執行権力を掣肘するということ、したがって、議会は政治活動をめぐって、支配階級とそれのみならずあらゆる諸階級、またそれらの分派が相互に衝突する利害、とりわけ労働者階級の階級闘争に対する利害を、曲りくねってかまっすぐにかあらわさざるを得ないということ、だから、あらゆる今日のブルジョア的・小ブルジョア的要求と態度は、多かれ少なかれ政権獲得のために政権欲の渦として議会にうごめいているということがいえる。
 政治権力は、階級闘争に不断に対応しなければならない。議会は多かれ少なかれ、この政治権力をめぐる支配階級と諸階級の対応を不断にその利害を国民の利害として見せんとしつつ、隠蔽と露呈の劇を演ずるよう迫られている。階級闘争の生み出した階級闘争を映し出す鏡である。
 そのことは、今日の新たな闘いは、自らの闘いの現実の内容、その見解と意図、今日の闘い自身がもっている革命的綱領、単にあれこれの宗派的存在理由に陥しめられているような綱領ではなくて、現実の大衆の闘い自身が打ち立てようとしているその革命的綱領、それ故に革命的労働者党が大胆かつ忠実に高く掲げて退くことを知らぬ綱領、それをこの議会に突き出し、単に支配階級のみならず、諸階級のとりあつかいにまかせなければならぬ。すなわち、彼がこの革命的綱領をめぐっていかなる態度を示すかを、何千万大衆に否応なく見えるものにしなければならない。そのことによって今日の闘いがいかなる侮辱と、いかなる恐怖と、いかなる制限とをもって遇せられるかを、最後には非合法へのあらゆる策謀、そういう過程をたどるということを、たどらざるをえないということを、何千万大衆の眼の前に突き出さなくてはならない。このことを通して、今日の新たな闘いは何千万大衆の道義的権威へと飛躍を促し、コミューンのための闘争を大規模かつ急速に成長せしめなければならない。
 また、そのことを通して、小ブルジョア的政治勢力の尻尾についている広範な労働大衆をまさに今日の大衆闘争の側に、本質的にコミューンをめざす闘いの側に立つように促し、そのゲバルトを同時にマハトとして、すなわち労働者大衆の不抜の道義的権威として打ち立てていく大衆の現実の闘いの波及力を、増幅的に強めて突き出し何千万大衆が、あらゆる今日のブルジョア的小ブルジョア的諸階級の運動と要求に対比するという姿を通して、このコミューンヘの道しかないことを理解する手段としてのみ、この転落の迫った今日のブルジョア議会を利用しつくし、コミューンヘの闘争の急速な成熟を、われわれは推進しなくてはならない。

六 「パリ・コミューン」の教訓と今日の闘争

 以上に要点的にみてきたことは、今日の闘いをもってするパリ・コミューンの教訓として、次の三点に突き出すことができると思います。
 第一に、パリの労働者の闘いは、国民的戦争、ヨーロッパ的規模での国民的戦争の下で、階級闘争がまさに烽起に達するや、その烽起が階級闘争の烽起である限り、その烽起としての爆発である限り、国民的戦争は階級対立を隠蔽せんとする支配階級の欺瞞策であることがこの闘いによって暴露され、国民的戦争はまさに階級闘争に転化する。
 普仏戦争は資本主義の自由主義段階から帝国主義段階のまさに入口にたつ戦争、すなわち帝国主義的工場制度が育ちつつあるフランス、フランス第二帝制、ボナパルトを頂点にいただくこのフランス帝国、それと同様に帝国主義的工場制度が育ちつつあるプロシア、ドイツ帝国へと突撃しているビスマルクが指導するプロシア、フランス同様ボナパルティズムとして近代的国家となりつつあるプロシアとの戦争、その最初の世界的性格を帯びた国民的対抗の戦争であった。その後このヨーロッパ的規模の国民的戦争の下から登場したパリの革命は、結局一応は一八七〇年九月四日、またもやブルジョア共和国を結果した。そのブルジョア共和国がプロシア軍隊のパリ包囲の下で降服するや、フランス・ブルジョアジーはただちにドイツの支配階級と手をにぎり、パリの武装せる労働者革命への武装解除にあたらんとした。パリの武装したままの人民の手から大砲を奪わんとするそのときに、マルクス・エンゲルスと第一インターナショナルが突き出しているように、「パリは一人の人間のようにたち上がった」。そしてまたこうした、パリ・コミューンはまさしく「階級闘争の所産」として生まれ出た。
 そして確かに、プロシアはフランスの領土、その領土を一部に入れるというまぎれもない征服の姿をとりつつも、第一インターナショナルは、単に征服、被征服という一面的総括に止まらず、そのようにのみ描き上げることを決してしなかった。すなわち次のような総括を全世界に指し示したと思います。「国民的戦争は、階級対立を隠蔽せんとするための支配階級の欺瞞策であって、階級闘争が内乱にまで爆発するやいなや放棄されるべきものである。諸国政府は、労働者階級に対立するものとしては、一つのものである」と。このことこそが、今日の国際的な支配階級の政府の同盟を理解する鍵を支えている。このことを見失っての階級論も、現状分析も、今日の現実そのものをつかむことはできない。まさに今日の国際的な支配階級の同盟を反革命階級同盟としてつかみとり深めることは、パリ・コミューンの烽起の労働者の血をもってする原則的な教訓でなければならない。
 第二に、官僚・警察・軍隊という、階級対立とともに古いこの寄生体を、一方の手から他方の手に移すのではなくて、コミューンの烽起はまさにこれをきっぱりと破壊した。そしてそれとともに官僚・警察・軍隊を、この寄生的な統治機構そのものを解体するなかから、一方ではそれを全人民の一般的武装にとって代え、生産者、社会の現実の構成員としての生産者、それ自身が一般的に武装する。そして他方、もはやコミューンの外に政府などなく、コミューン自身が政府である。コミューンの各種委員会はそのまま政府の部局である。すなわち、決定と執行の分離を廃棄して、人民の疑いもなく明確な代表によって決定しかつ執行するという労働者階級の政府「労働者階級の遂に見出した形態」である。
 第一インターナショナルはこう声明した。「コミューンはどこまでも発展性のある政治形態であった」、「生産者の政治的支配は、その社会的隷属と両立できない」、「これは階級闘争なしには一つの不可能事であった」と。まさに、コミューンはあらゆる社会的隷属を廃棄していかざるを得ないものであり、コミューンなしに社会革命は遂行できない。
 ところが、ソヴィエト連邦という名をもった今日のソ連邦は、パリ・コミューンの光に照らしてのそのありようの最も端的な反プロレタリア性は、結局のところソヴィエト最高会議は、全ソヴィエト最高会議は、せいぜい、最もよくて決議機関であるにしかすぎない。その外に、別に、異様にふくれ上った政府がある。すべての執行はそこからおこなわれる。まさにソヴィエトの、コミューンとしてのソヴィエトの、全国連合は、その明確な代表者をもってそれ自身が決定にあたり執行にあたるような行動形態。そのようなものとはまったく異った姿をとっているというところに端的に示されています。
 今日の平和革命論はどうか?
 今日の「平和革命」論の本質的問題は、単に議会を利用しようとしているとか、単に非流血的または非武装的な革命であるとか、単に組織的な革命であるとか、そういうところの強調にあるのではない。その反プロレタリア的本性は、まさに官僚・警察・軍隊のこの寄生的統治機構そのものをきっぱりと破壊するのではなくて、それを手に入れたいということにしかすぎないことにある。そこに基本的な問題があると思います。
 確かにマルクス・エンゲルスは、イギリスなどについて「平和的合法的」な道をいい、「大陸では」というひかえめないい方で、労働者革命の暴力の役割をいったりしている。レーニンは、帝国主義諸国のあらゆる政治的反動の強化を指摘しつつ、イギリスを大陸から区別してみることを止めた。今日の「平和革命」論の「マルクス・レーニン主義者」は、まったくレーニンと似ても似つかない所をうろついている。だが最も重要なことは、第一インターナショナルのマルクスは「労働者階級は単に出来あいの国家機関を手に入れてそれを利用すればいいというわけにはいかない」と、つかみとらえて突き出しているということだ。すなわち、コミューンを、労働者革命が労働者革命である限り必要不可欠な本質的なものとしてとらえている。
 第三に、そして最後に、パリ・コミューンの核心的な教訓は、まさに生産者の自由で平等な連合ということである。二ヶ月確実に生きたパリ・コミューンは労働し思索し、闘争し血を流しつつあるパリは、その短い生存の期間に、都市パリに止まらず同時に広大な農村にしっかりと目をそそいでいた。農村ソヴィエト、その農村ソヴィエトはその地方の中心都市に代表を送って、都市労働者とともに、その地方の共同の事務を処理し、またそこからパリの全国代議員会議に代表を送り、全国的な共同事務に当る。このことをはっきりと計画していた。
 それとともに、労働者の団体、労働組合、それ自身を生産協同組合へと高めて組織し、それにパリ中の工場をゆだね、全国の工場さらに土地を、まさに生産者の生産協同組合の全国的連合の統制の下において、全国的な共同計画の下で自ら労働を調整し、その労働を享受せんとした。そのことを突き出した。
 このことは、もし今日の家族の諸関係、労働者の家族及び男女両性の関係、他人に使われる労働に出てゆくということからするあらゆる家族的紐帯、きずなが裂断され解体せしめられている労働者の家族が、生産者の自由で平等な連合のなかに自分自身をおくならば、いかに自由で発展性のある形態を獲得するかを示している。生産過程が労働者のために存在するのではなくて、労働者が生産過程のために存在するという社会的に組織された生産過程の野蛮な資本制的形態の、この恐るべく発達した今日の帝国主義的工場制度のもとにおいては、老若男女の種々様々の労働者たちを構成体としたその工場の結合労働において、労働手段は労働者の抑圧手段であり、その労働自身が労働者の隷属と荒廃の手段であるけれど、しかしこのような生産者の全国連合によるこの連合をもってする自由な共同労働の道は、都市と農村の数千年にわたる恐るべき分離と対立を不断に融合せしめていき、子供は早くからこの労働に参加することをもって、すさまじい荒廃ではなくて逆にその生ける個人がもっている、本源的な、あらゆる人間的資質を自由に豊かに成長させ、婦人は同じようにこの巨大な全国的共同労働体への参加をもって自分の共同的存在であることを発展させ、同じように成年男子労働者も全面的な人間的発達をとげていく。
 この偉大な歴史的過程においてこそ、今日の文明的でありながら同時に野蛮な、奴隷化した労働によって荒廃のなかにたたき込まれている解体の渦の中にあるプロレタリアの家族は、機械それに土地と、労働する人々との広大な規模でじっくりと融合してゆく生産者の自由で平等な連合において、この全国的な共同労働を通じて、一層高度な、歴史的により高い家族および男女両性関係の創造をなしとげるであろう。働く人々の夫婦および親子は、その広大な生産者の自由において、相互理解のしっかりとした基礎を獲得するであろう!

七 むすびとして

 以上全体を総括的に要約すれば、次のようにいえると思います。今日の生産組織、帝国主義的工場制度の荒れ狂う破壊作用に抗し、踏みにじられた人民大衆の前衛として行動する労働者運動の巨大な前進のために、奴隷化した労働の永続化のための国家の打倒と、生産者の自由で平等な連合、コミューンの樹立をめざして、ただそのためにのみ転落のさし迫る今日のブルジョア議会を革命的に利用しつくしつつ、断乎たる闘いを推し進めよう!
 最後に、世界交通の飛躍のための東京新国際空港粉砕闘争の現在のただ中において、われわれの忘れえぬ友、献身的同志、山田公彦が今日の恐るべき交通手段によって不慮の死をとげたということを、パリ・コミューン烽起百周年の記念とともにしっかりと胸にきざみ込んでゆきたいと思います。以上をもちましてこれで終りたいと思います。

(パリ・コミューン百周年中央集会記念講演 一九七一年三月一八日/『著作集第二巻』所収)


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